「門真にも戦争があった」―赤井秀治氏からの聞き書きを紹介します

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亀井「7月25・26日、ルミエールホールでピースフェスタ門真実行委員会主催の「平和のための戦争展」が開かれてました」「その会場に、『門真にも戦争があった』というタイトルのついた持ち帰り自由の印刷物がありました」

カメちゃん「どんな内容?」

亀井「門真市城垣町在住の赤井秀治さんから5年前に聞き取られた、太平洋戦争当時の門真の様子がよくわかる内容でした」「是非、たくさんのみなさんに知ってもらえたらと思って、赤井秀治さんのご了解も得て紹介させてもらうことなりました」

カメちゃん「私も読ましてもらいます」





門真にも戦争があった

赤井秀治氏からの聞き書き

2003年8月1日

【小学校1年から戦争に】

 小学校1年生だった昭和16年12月8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦が始まりました。1年生だったからこそ忘れられない出来事になりました。学校に上がった年という意味で、「戦争に巻き込まれた小学校生活」でした。
 学校では、「ススメススメ、ヘイタイススメ」の教育を受け、朝登校すると、正面講堂に飾ってある天皇・皇后の写真を拝み、皇居のある東を向いて遥拝してから勉強が始まるのです。家に帰れば、父は、青年学校の軍事教官をしておりました。学校と家(大人)と両方の教育の影響で、小学校3年生の頃から、「大きくなったら、天皇陛下のために命を捧げるんだ」と思っていました。父親が、担任の先生から「あなたの息子さんは、作文で『特攻隊に志願する』と立派なことを書きましたよ」とほめられたという話をしたのを覚えていますから、そうゆうことを書いたんでしょうなぁ。
 そんな少年でしたから、戦争が終わったと知らされた時は、「このニュースは信用できない」と思いましたし、心が“蝉の抜け殻“状態でした。そして、本当に戦争が終わったとわかった時には、「いつか僕が大きくなって、米英をやっつけてやる」「敵討ちしてやる」と思いました。


【敗戦の日】

 8月15日の玉音放送の日は、とても大事な放送があるというので、近所の人が家の庭に集まって、いっしょに聞きました。しかし、ノイズ(雑音)がひどくてよく聞き取れず、ただ一人、祖父だけが「日本は負けたんや。戦争は終わった」と言いました。
 祖父は農業一筋の人で、仕事ばっかりの人でした。本を読むわけでもなく、特に勉強をしていたわけでもないと思うのですが、1度、私に「この戦争は負けるぞ」と言ったことがありました。私は、お国のために命を捧げるんだと思っているような少年でしたから、『へんなことをいうじいさんだ』と思い、父にはもちろん、だれにもその話は出来ませんでした。日本は負けるなどというと豚箱に引っ張られる時代に、祖父はいったいなぜ、そんなことを私に言ったのでしょうか。今ではもう、聞くことができません。
 その祖父だけが「日本は負けた」と聞き取ったのでした。
 父は、「いや違う。いよいよこれから本土決戦に一丸となって頑張れとおっしゃったんだ」と言い、祖父と父の意見は対立し、口げんかが始まりました。祖母と母が止めに入りましたが大変でした。その場所に居合わせた人々は二分しました。

【父のこと】

 戦後、父は、どこでどう人々とつながり勉強したのか、寝屋川に住んでいたIさんという人といっしょに運動し、北河内に共産党の活動を広めました。自宅の玄関の横には「日本共産党 萱島細胞」と書いた大きな木版の看板を掲げました。家の前を通る人々の中には「はぁー?」という感じで眺めて行く人もいれば、罵声を浴びせていく人もいました。
 私が中学生だったころ、父が「(戦争中の自分の考えは)間違っていた」と言ったことがあります。父が共産党の活動を始めてから、私は、友達の親から「赤の子」と呼ばれたりしました。それは、子どもづきあいの世界とは関係なく友達の親からも言われました。人間的にいい人であっても、そうでした。私の家族は、いわゆる「村八分」状態でした。
 しかし、そんな ときの父は、立派でした。「己を通す」というか、「節を曲げない」というのか、とにかく自分の正しいと思う道を貫き通したと思います。

【空襲】

 堺が爆撃された時はよく見えて、こんなことを言ったら不謹慎ですが、焼夷弾に照らされて、南の空は真っ赤に染まり、とてもきれいでした。
 大阪大空襲の後は、空が真っ黒になり、夕立が降りました。燃えカスの紙やいろんな物が飛んできました。ある時は、端のちょっとこげた10円紙幣が飛んできて拾ったことがあります。小遣いが1銭・2銭の時代に10円は、すごい大金です。拾った子ども達で相談して、交番へ届けました。おまわりさんは「偉いね」とほめてくれましたが、その後何の連絡もありませんでしたから、あのお金は、どうなったのでしょうね。

【門真にも疎開が】

 大阪大空襲を前後して、門真にも集団疎開がありました。受け入れられる家庭ということで、我が家にも、男1人女2人の兄弟と5人が来ました。お寺には何十人か来ていました。みんな栄養失調で、おなかがふくれ、顔色も悪かったです。
 また、家族ぐるみの疎開もありました。空襲で家を焼かれた人、強制的に立ち退きさせられたい家族、男女合わせて十数名を迎えました。みんなですぐ友達になって、大空襲の生々しい話、都会の学校生活などを聞くことができ、戦禍は悪化する一方でしたが、楽しい思い出でいっぱいです。
 遊びは、いつも戦争ごっこでした。野球やサッカーを知ったのは、終戦後です。特に野球は、敵国のスポーツであると、禁止されていました。平和な世の中でこそ、いろんなスポーツを楽しむことが出来るんですね。
 大人たちは、本土決戦に備えて、バケツリレーによる消火活動の訓練や、竹槍づくりをしていました。それは、戦後の小学校5年の夏まで続きました。
 終戦後、世間が落ち着いて、疎開していた子どもらは、一人、二人と都会へ帰っていきましたが、その彼らは今どうしているのか、知るよしもありません。

【怖かったこと・・・3つ】

 私が「これが戦争だ!」と怖さを肌に感じた出来事が、3回あります。
 その1つ目は、機銃掃射で狙われたことです。
 今の天辻鋼球や松下電器は、その当時軍需工場でした。大和田の日立ティアラは、伊澤銃砲といって、やはり軍需物資を生産していました。ですから今のバスどおりは、軍事道路だったわけであります。ある日、集団下校していますと、突如轟音が聞こえ、機銃掃射に襲われました。グラマン戦闘機は標的を見つけると、気づかれないように上空でいったんエンジンを止めて、急降下して掃射するのです。ばらばらになって逃げ帰りました。それは怖かったです。

 2つ目は、同じくグラマン戦闘機に、父と二人機銃掃射を受けて、腰が抜けんばかりにびっくりして防空壕に転がり込んだことです。
 連合軍による本土攻撃が始まると、各家庭で防空壕を作りました。私の家族は、大人4人、子ども4人でした。裏の竹やぶに8人が入れる防空壕を、父と手伝って作りました。穴を掘って土をかぶせた貧弱な造りです。爆弾が落ちれば何の役にも立ちませんが、そんな防空壕でも中にいると、気が休まったものです。
 つらかったのは、深夜の空襲です。親に起こされ、眠たい目をこすりこすり、防空壕に避難するのですが、朝までぐっすり寝てしまったことが何回かありました。空には、B29もグラマンの姿もないので、父といっしょに上空を眺めていると、突然、竹がバリバリと裂ける音がしました。この瞬間の恐ろしかったことは、脳裏に焼きついています。屋根ぎりぎりに超低空飛行してきたグラマンのパイロットの顔を、ハッキリ目撃したのです。これは本当です。横にいた父も見ました。

 3つ目は、父母が九死に一生を得たことです。
 その日、父母は、四之宮小学校の近くで田植えをしていました。いつもは続けて働く父が、なぜか母に、「もう帰ろうか」と言ったそうです。ところが、その後すぐに、ちょうど父母が田植えをしていた場所に1トン爆弾が落ちたのです。そのことを聞いた私は、さっそく田んぼに見に行きました。あたり一面なんともいえない火薬のにおいが立ち込め、直径4,5メートルの大きな穴があいていました。水面は、赤茶に変色し、小魚の死体が不気味に浮いていました。もし、父の胸騒ぎがなかったら、と思うと、ぞっとしたものです。
 ちょうど同じ頃、寝屋川の神田にいた父の知人は、爆弾にやられ、帰ってきませんでした。その日、田起しに牛を引いて出かけたのですが、午後になって牛だけが農機具を引きずって帰ってきたのです。家人は、「あら、牛だけ先に帰ってきたよ」と気にも留めていなかったのですが、余りに帰りが遅いので田んぼへ迎えにいってみると、爆弾の大穴が開いていたそうです。知人はなくなり、すぐそばいた牛は、助かったのでした。

 戦争とは、そんなもんです。子どもや農民は、戦争しているわけではありません。しかし、戦争とは、戦闘員だから、非戦闘員だから、という区別はしないのです。無差別に殺すのが戦争です。ベトナム戦争の時もそうでした。今回のイラク戦争もそうです。民間人が殺されたというニュースを聞くたびに、子どもの頃の怖かった思い出がよみがえります。戦争は、無差別に人を殺すものだということを忘れてはなりません。
 
 門真に爆弾が落ちたのは、枚方の香里が丘にあった軍需工場と、堺との間の通り道だったからのように思います。B29爆撃機が数十機編隊ではるか上空を飛び、高射砲で撃っても届かなかったんですよ。日本本土の上空は、連合軍に制圧されていたのです。

 我が家は、幸いにも誰も死ぬこともなく幸せでしたが、下島町のI君のところは、I君が2年生だった時にお父さんが亡くなり、苦労されたと思います。I君も、家と田んぼを守って、本当に頭が下がります。偉かったと思いますよ。

【大空襲の後】

 大空襲の翌日、親戚が住んでいた大阪市内の南森町まで行きました。父が米の販売をしていましたから、リヤカーを引いて行ったのです。守口を過ぎるあたりから焼けたにおいが立ち込め、焼け野原はまだ、ブスブスと火が残っていました。幸いにも倉は残っていましたが、焦げたままの立ち木が並んでいる様は、不気味でした。
 巣本交差点の西側のお墓の横の1,000坪ほどの田んぼでは、大空襲の後、たくさんの人々が野焼きされました。
夏の日の夕方、7時頃でしょうか、トラックがやってきて、石を積み、大きな鉄板を載せました。鉄板の下にマキを入れて・・・。ちょうど今のバーベキューと同じです。何をするのかな、と見ていますと、バスどおりから軍用トラックが1台、2台、3台とやってきました。荷台には、死体を積んでいます。それも、山のように積み上げています。それを人の手で足と手を掴み、放り上げるように鉄板の上に載せました。まきだけでは燃えないので、バケツでガソリンか何かを撒きました。そうすると、黒い煙がパァッとあがります。そうやって、次から次へと焼きました。火の回りが悪いと、棒でさばきました。
子どもだから、じっと見ていたのでしょう。なぜ、そんなにじっと見ていたのか、自分でもわかりません。

【終わりに】

 最近の世相を見ていると、これで良いのかと不安になることが多いです。
 「2度と繰り返さない」といいながら、「どうすれば、2度と繰り返さないですむか」という論理が聞かれません。
 私の担任の先生は、戦後、教科書に墨をぬらせましたが、一言も「間違っていた」ということをおっしゃっていませんでした。戦争に従軍していた人たちも、自分の手柄話をするけれども、『悪かった」という言葉を、少なくとも私は聞いたことがありません。不思議ですねぇ。

 今年も、58回目の終戦記念日を迎えました。小学校1年生の6歳で、天皇は父であり皇后は母であると教えられた軍国少年も69歳の高齢になりました。
 としかさも行かない子どもをして、天皇に命を捧げると言わしめた戦前教育は、本当に恐ろしいです。教育は人づくりです。しかし、人を支配してはなりません。これが、私の持論です。
 今、日本は平和です。明日も平和でしょう。でも、この平和は、いつまで続くのでしょうか。いつまでも平和であって欲しいと願いつつも、ふっと、不安がよぎる時があります。
 その1つに、教育基本法を改悪して、子ども達に「愛国心」を教えるあの戦前の修身教育を復活させるような動きがあります。また、有事法制の強行や、自衛隊イラク派兵法など、歴史は戦前に戻るかのように見えます。

 このたび、私の小学校時代の小さな戦争体験を聞き取り調査していただき、忘れていた数十年前の記憶が1つ、また1つとよみがえってきました。
 残りの人生を、平和を愛するみなさんとともに歩んで生きたいと思います。
 (文責 小川佳子)

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このブログ記事について

このページは、亀井あつしが2008年8月 3日 14:43に書いたブログ記事です。

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