せんせ物語



      



「せんせ物語」1985年11月24日発行     


                                                木村海圓 中村秋生 両先生退職記念出版

                                                    退職記念出版記念委員会(著)

農業科問題


 昭和四十三年、桂高校の学校内の民主化はだいぶ進んでいたが、教師対生徒という関係では、まだまだ封建的なものが残っていた。平気で生徒をなぐったり、馬鹿者呼ばわりする教師がいたのである。これはできない生徒を差別することであった。

 こういった矛盾が、集中的にあらわれてきたのが農業科だった。当時、学校では三年二組問題としてたびたび職員会議の俎上にのぼった。このとき副校長をしていた但馬氏は回想して次のように書いている 。

   一学期も半ばにさしかかったころ、農業科三年生がホームルーム教室の入口付近に机や椅子でバリケードを作り、授業をボイコットするという事件が二回続いた。当初は単なるいたずらと思い見過ごしていたが、暫くすると教室の窓硝子が大量に破壊されるにおよび、ただごとでないことが察せられた。いちおう修理したが再び破壊された。生徒指導部で調査に乗り出したが、誰が何のために破壊するのか事情が全然掴めない。やがて授業中にわざと食事をしたり、麻雀パイを広げて遊ぶなど公然と学校に対する反抗を示すようになったが、注意しても担任はもとよりわれわれ教職員に対してもまったく耳を貸そうとはしなかった。やっとのことで主謀者と目される者と話し合いがつき、クラスの全員と全教職員との話し合いの場を会議室でもつことができたのは二学期早々であった。…(略)…  ある生徒は「00は俺達のクラスを動物園と言った」と、一教諭を呼び捨てにして語った。…(略)…またある生徒は、自分達には一年生の初めごろ、英語の教科書に中学校のものを使用したが俺達を馬鹿にしているというのである。(『教育の軌跡』)

事実経過はこのとおりだが、農業科の生徒に対する見方が私とは異なる点があるので、この事件の現場にいた一人として書き残しておかねばならない、と思う。

 まず、「誰が何のために破壊するのか事情が全然摑めない」と書いてあるが、こういう反抗は起こるべくして起こったと言うべきである。

 このころ、桂高校では、農業科の生徒を差別する傾向が強かった。まず第一に、農業科のホームルーム担任を希望する先生が皆無に近かった。誰も希望者がないので、農業科の担任は抽選で決定されることがよくあった。いやいや担任になった教師が、生徒にどういう対応をするか、担任の顔をみて生徒がどう反応するか予想できたのである。

 そして、第二に、農業科の授業の担当を希望する教員が少なかった。いやな講座は講師にまかせよ、という風潮があった。

   生徒との話し合いを通じて学校側も反省すべき点は反省し、農業科生徒に対する差別観を問題にして討論や研究をしたり、校内での生産物の販売方法の変更や販売規制をするなど、いろいろ工夫ほしてみたが、生徒達の態度は容易に改まりそうになかった。(前掲書)


 改まらないのは当然であろう。彼らが何を不満に思っているか、理解していなかったのだから。

 文部省が中央教育審議会の答申にもとづいて、政府が後期中等教育の多様化をおしすすめるよぅになって以来、中学から高校への進学は、学力別の輪切りが行なわれるようになった。但馬氏は、京都の高校三原則に触れて次のように書いている。

   学力別に普通科、工業科、商業科、そしておおむね最も低い学力で公立学校を志望する生徒を農業科に振り分ける方針をとって以来、総合制はナンセンスになってしまったのである。目的別ではなくて、学力別に農業科等の職業学科に組み入れられた生徒に、差別感を抱くななどという方が無理である。(前掲書)

人間を測るひとつの尺度でしかない偏差値によって振り分けられ、希望を失って入学する生徒に、「差別感を抱くななどという方が無理」だ、これは倣慢なエリートの論理だ。どのような場であれ、常に生徒に希望を持たせるよう努力するのが教育の第一歩ではないか。

 この農業科問題があった頃、朝日ジャーナルで「日比谷高校生の選良意識とモラル」という座談会があった。そのなかである生徒がこう発言していた。

   ぼく個人のもつ教育の理想ですが、それは、ぼく以外の人間が、ばくより劣った環境で、ぼくより能力が高くならないよう教育されること、つまりぼくだけが甘い汁を吸えることが理想です。(朝日ジャーナルより)

 高校教育の多様化という、もっともらしい文句にのって、つぎつぎと中学生の進路が決められてゆく。曰く、高校は義務教育ではない。適性に応じた教育がなされるべきだ。なるほど人間の進路は多様であろう。しかし、だからといって、高等学校を多様化せよ、というのは論理の飛躍であろう。なぜなら、自分の進路に見合った教育は、その本人が決めることであって、上から圧しっけられる筋合いのものでは決してないからだ。

ミックスホームルームの始まり

自分の進路は自分で決めてゆく、ということに誰も反対しないだろう。しかし現実の社会が競争社会であり、そこを生き抜くには個人の能力がものを言うのも事実だ。学校がその波をかぶらずに存立してゆけるはずがなかろう。

 桂高校のなかで、農業科の差別問題が取り上げられ、議論もされ、われわれ教師の意識も少しは変わったかもしれなかった。けれども、職業科の生徒には、依然として暗い屈折した劣等感をもっているものが多かったし、普通科の生徒に憎悪の目を向けるものもあった。普通科の生徒にもまた言外に軽蔑の態度をあらわにするものもいた。

 要するに昭和四十三年に起こった、三年二組差別問題の本質は、解決されていないのだった。相変わらず、農業科の担任を希望する人は皆無に近かったし、授業も、できるだけ講師にまかせる風潮は改まらなかった。

ミックスホームルーム推進の動きが高まったのは、昭和四十六年のことだった。学校の授業の中には、ホームルームの時間というものがあり、担任と生徒の意思伝達の場として、遠足や文化祭、体育祭などの行事への参加が取り組まれていた。このホームルームを普通科、農業科、園芸科、と分けずに、異なる学科の生徒を均等に配分して一つのクラスをつくろう、というものであった。

 とにかく、この頃までに、桂高校の職員みんなが、職業科の現実と向かい合うことに疲れ切っていた。昭和四十五年ごろを頂点とした、70年安保闘争で、日本各地の大学がごった返していた。桂高校にも紛争の余波はとんできており、彼らとの対応にも教員は疲れていた。何もかもがとげとげしく、やりきれなく情ない季節であった。これらのごたごたが続いている間も、職業科のクラスは荒れに荒れていた。教室の窓硝子はほとんど割れており、授業に参加する生徒も少なかった。

 政治の季節も過ぎ去り、桂高校の職業科はとり残された。しらけと無気力の充満する学校で、職業科の生徒達も自分の生きてゆく方途をともすれば見失いがちであるように思われた。

 小手先の細工でうまくいくはずがない。かといって、私達が面と向かって教育すべき生徒達は、いま学校にいるのだ。園芸科のK君が現われたのはこういうときであった。進退きわまり疲弊していた私達は、彼の声に耳を傾け、彼に導かれてミックスホームルームの推進へと動いていったのだった。

 ミックスホームルームを行なっているのは京都市内でも何校かあるし、桂高校でミックスホームルーム制ができたときも、北桑田高校などでも同時期に実施されたと思う。

 しかし何よりも特筆すべきなのは、桂高校のミックスホームルーム制は、K君を中心とした生徒達が、自主的に議論し検討して押し進めていったということである。

 「負うた子に浅瀬を教えられる、ゆうのはこのことやな」後年、私は、K君にそう言ったものである。

 球技大会などで、サッカーやバスケットボール大会が行なわれるときなどは、生徒部の先生が二、三人立っていなければならなかった。見張りである。職業科の生徒と普通科の生徒の試合のときは、ぶつかり合いが激しく、けが人が出ることがままあったからである。試合後の暴力事件も珍しくなかった。

 ミックスホームルーム論議が出た最初のきっかけは、その年の球技大会でのサッカーの試合だった。普通科と職業科との試合で、職業科の幾人かのプレーがあまりに激しく、普通科のクラスが試合を途中放棄して帰ってしまった。普通科の生徒にすれば、故意にぶつかってきたり、けられたりした、ということだった。この職業科のクラスで、化学を教えていたT先生ほ、「おまえら、サッカーの試合でずいぶん派手なことやったみたいやけど、ほんまかいな」と、授業のとき尋ねたそうだ。

生徒は、

「そうです、ムチャクチャ蹴ってやりましたわ、ごっつう気持ちよかったですよ」と答えた。そこでT先生は、ごっつう気持ちよかったかて、そんなことでは問題の本質的な解決にはならんぞ。普通科の連中は試合放棄して逃げていった。それでおしまいやないか。生徒を焚き付けてやったんや、T先生はそう言って、生徒部長の私をちょっと心配させた。

 T先生は、試合放棄した普通科のクラスでも化学を教えており、そのときのことをきいてみると、

「そんなもん、ばかすかやられてあんなもん試合になりませんよ。あほらしゅうて放棄したんですわ」という生徒の反応だったらしい。T先生は、

「そら痛い目おうて、おまえらたいへんやったな。そやけど、職業科の連中は、もしかしたら一年中毎日、精神的に蹴られつづけてるのかもしれへんのやぞ。おまえら、そこまで想像できるか」

と、教育的暗示を与えたらしい。

 この事件はこれでもうおわりやろか、と私が言うと、T先生も、そうですなあ、どうなるかわかりませんね、という返事だった。

 K君が、職業科の生徒六十人ぐらいを引き連れて、その普通科のクラスに抗議にいったのは二、三日後だった。

 「普通科のクラス同士の試合やったら、どんなことがあっても途中放棄なんかせえへんやないか」

「職業科を差別してるからや」

「わしらが毎日どんな気持ちで学校きてるのかわかってるんか」

「おまえら廊下ですれ違う時、どんな目でおれらの顔みとるんや」

 K君の他、何人もの生徒が入れ替わり立ち替わり発言していったらしい。職業科の生徒達の率直な訴えを聞いて、普通科の生徒の中にも理解を示すものが何人か出てきた。抗議のための話し合いは熱を帯び、どうやったらお互いにいがみ合ったりせずに学校生活がおくれるか、なぜ差別し合わないといけないのか、という本質的な点に向いていった。

 こんなしょうもないことで、なんでこんなにいがみ合わんといかんのか、お互いに話し合っているうちに嫌気がさしてきた。そうや、クラスが同じやったらケンカのおこるはずがないやないか。

そして生徒が差別意識をもっているのは、教師の責任やないか、学校の責任やないか、ということになった。

 授業中に教師がどういうことを言っているか、点検せなあかんぞ、という結論になった。そこで集会を開きたいから会議室を貸してほしいと、K君は私のところへやってきた。

 集会では、あの先生が、授業中にどんなことを言った、と生徒は次々と発言し、事例をあげ板書していった。

 「国語のY、英語の0、完全に差別してるで。職業科と普通科を分けて考えてるで。そうやこう言われたで、これは普通科で教える内容ですから、君らはわからんでもいいんです。君ら、どうせ職業科ですから、そういいよった」

「普通科ではこう言ってるで。おまえらもっとしっかり勉強せんと農業科の生徒みたいになるぞ」

教師が生徒を差別している。それが第一の問題や。職業科の生徒も普通科の生徒もいがみ合いたくてそうしてるのとちがう。制度的にお互いが差別するように組み込まれているんや。彼らはしっかりとそう確信した。けれど、その確信をどうやって具体的に現実のものにしてゆくのか、そんなことはさっばり見当がつかなかった、とK君は後で語った。

 生徒部の二、三人の先生は、彼らの動きに注目していたが、学校全体の中では少数派だった。多くの先生は彼らを黙殺しており、職員会議の中でとり上げられることもなかった。K君もあせっていたと思う。学期試験に突入して、はじめの熱気も消えそうになった。なんとかせんならん、とK君は真剣にそう思ったそうだ。頭の回転より体の回転の方が速いK君は、数人の生徒を試験終了後テニスコートに集めた。このとき、K君を中心として職業科の生徒だけでなく、普通科の生徒も集まった。

 「この問題をこのまま終わらせたらあかん。なんとしてもやり抜かんとあかん。ホームルームを一緒にする運動を推めよう」と彼らは誓った。

 ミックスホームルーム実行委員会ができあがった。彼らはフランス革命になぞらえて、これを?テニスコートの誓い″と呼んだ。彼らの運動に生徒会長をしていたN君が支持者に加わって、にわかに具体性を帯びてきた。

N君は生徒会長として、学校の校門横の掲示板に貼り紙をした。生徒会は「ミックスホームルーム実行委員会」とは無関係でありその活動には関知しないが、心情的に主張を支持する。

 数日後、生徒集会が開かれた。ミックスホームルーム制について投票が行なわれ、可決された。学校もいよいよ無視することができなくなってきた。私はK君らの運動がここまで成長するとは思っていなかったので、驚きもしたが愉快でもあった。

 おもろなってきたなあ、T先生やN先生と談笑しているとき、職業科の女の子二人が生徒部にやってきた。夕方の五時ぐらいだったろうか。生徒部にやってきて雑談をしていく生徒でもなかったので、何の話かいな、と思っていると、彼女らは二時間ぐらいしゃべっていったのである。

 「先生ら、K君を利用してるんとちゃうの。利用したら絶対あかんえ。私ら許さへんからね。あんなええ人いいひんのやから」

 「先生ら、どんなことがあっても最期までK君を支持してくれるの」

驚いたことに、彼女らは内偵にやってきたのだった。Kというのはほんまに人望のある奴やなあ、と感嘆し、こらわしらも腹くくってがんばらんと笑われるで、とT先生は私に言った。同感であった。

 とにかくミックスホームルームを実施しようという意見が生徒の中から出てきた。これは画期的なことだった。生徒部の各先生と話し合いをしミックスホームルーム制を職員会議に提案した。最初の職員会議では賛成反対の意見は完全に対立した。

 「ミックスホームルームなんて、毒を薄めるようなもんやないですか」

 私はムラムラと腹が立った。

 「毒を薄めるとは何事か。桂高校の職業科の生徒は毒か。何を言うとるんか」

これほど極端な意見は、叩くのに苦労しなかったが、しんどかったのは、何となく不安に思っている沈黙したままの他の教員であった。翌年のミックスホームルーム実施に向けて、三度四度と職員会議を開いたろうか。回を重ねるごとに、何人かの先生たちが、―――まてよ、今みたいに嫌な気持ちで毎年の担任を抽選で決めてるのに比べたら、はるかにえ               え制度になるのとちがうやろか。

こんな空気が出てきた。果して職員会議の議決にかけて

通るやろうか。私は汗をかきながら、何人もの先生と個人的に話をつづけていった。何とかいける、と確信した次の職員会議で決がとられた。

 結果は一票差であった。賛成が上まわったのであった。

 新しくミックスホームルームができ、私はその実践活動に入るべく二年生の担任になった。けれど、最初の数ヶ月間は反対派の教師の不信の目に悩まされた。あんなもんムチャクチャな議決やないか、というわけであった。職員室などで歓談している数人の教師のグループの傍に私が行くと、シーンと静かになって鼻白んだ空気になるという具合だった。  

しかし一方で、ミックスホームルームの利点は目に見えて明らかになってきていた。

 生徒どうしのもめ事は少し起こったが、それはささいな「面を切った」などという類のものであった。普通科と職業科の生徒の目立った喧嘩はなくなった。

 職業科と普通科との教員の交流もさかんになった。例えば、あるクラスの理科の担任が自分のクラスの農業科の生徒の成績をみて、農業実習が悪かったとする。すると農業科の先生のところへ相談にゆく、という具合であった。逆の場合もあった。職業科、普通科の教員が共にひとりの生徒の面倒をみてゆく、という画期的なことが起こったのだった。

 翌年の職員会議では、圧倒的多数でミックスホームルーム制が支持されたのだった。

 この制度ができてもう十年余の歳月が経った。高等学校の教育の中での職業教育がかかえている矛盾を、ミックスホームルームが解決した、そんな大袈裟なものではなかろう。しかし、この矛盾を現場の教職員が身銭を切って受けとめてきた証しとしての価値は大いにあると確信している。

 ミックスホームルーム制ができる前の普通科と職業科の生徒の陰惨な対立や教師相互間の不和や不信感など、これらのことを知らない新しい教員も増えてきた。彼らの中には、ミックスホームルームの価値を認める人もいるが、反面、進路指導がやりにくい、職業科の生徒がホームルームの中で小さくなっている、等々の枝葉のことをとらえて否定的な意見をもつ人も多くなっている。これは私としては残念である。本質として正しいことから生ずる小さな矛盾を無原則に拡大して欲しくないと思う。

 桂高校の教育で一番大事な事は、職業科教育である。職業科の生徒達の教育をなおざりにしてゆけば、かならず学校全体が荒廃してゆくに決まっている。かつての学園紛争のときもそうだった。できない子供をどう教えてゆくのか、既成の観念で、この生徒はできない、落ちこぼれている、と言うのはひどく易しいことである。「できる」子供だけを相手に授業をすることほど易しいこともないけれど教師が自分の資質を磨く場所はもっと違った別のところだと思う。